たぶん利休七哲/利休七哲
元ネタ
歴史:利休七哲
メンバー
歌詞
利休の背中追いかけて
ここまで来たよ 数奇の道
数寄は「好き」と同語源で、風流・風雅を好むことを指し、15世紀中頃から茶の湯の風流も指す語となりました。
わびさび学び 茶の湯フォーユー
武功もお茶も立てるのさ
「わび」は飾りやおごりを捨てた、ひっそりとした枯淡な味わい、「さび」は古びた味わいだそうです。「わび」という言葉を初めに使ったのは千利休の師の武野紹鴎で、侘び茶を大成したのが利休です。
武士が茶の湯を嗜んだ理由は、茶会が外交の場であったこと、茶の湯に精神訓練的側面があったことなどが挙げられます。
名物なんて なくていい
茶室に広間もいらないさ
行こう待庵にじり口
くぐればそこは ユニバース
ここでの名物とは選定された由緒ある茶道具のことを指します。利休は名物でなく無名、あるいは新作の道具を積極的に取り入れました。
待庵は利休が侘び茶の理想を体現した茶室です。にじり口は利休が発案したとされる茶室の小さな入り口で、客は身をかがめてにじって茶室に入ることになります。その小ささは、武士などが下げている刀は外して入らなければならないほど。茶室に入れば皆身分は関係なく平等であるということが表されています。
竹の花入れ 水仙の花が揺れてる
一期一会 やっと会えたね
利休は豊臣秀吉の小田原攻めに同行し、その地に生えていた竹で簡素な花入れを作りました。
水仙の花は利休が好んだとされています。
一期一会は元々茶道の心構えを示す語として、客も客を迎える側も茶会は毎回一生に一度だというつもりで、誠意を込めて臨むべきだ、という意味で使われていました。
織田信長・豊臣秀吉に仕えた武将。歌道も茶道も嗜んで武功も立てた文武両道なキリシタン大名。利休が自害した後、息子の少庵を保護しました。
細川藤孝(幽斎)の息子で、光秀の娘たま(ガラシャ)の夫としても有名。秀吉に仕えましたが関ヶ原の戦いでは徳川方につきました。和歌・絵画・蹴鞠など複数分野において知識多め。血の気も多め。
芝山監物
信長・秀吉に仕えた武将。秀吉には御伽衆(主君に近侍して雑談の相手をする職で、当時一流の文化人が就いた)として仕えました。
信長・秀吉に仕えたキリシタン大名。文禄・慶長の役に参加し、朝鮮で没しました。
信長・秀吉に仕えたキリシタン大名。牧村利貞や黒田官兵衛など多くの武将をキリスト教に導き、バテレン追放令が敷かれても信仰を捨てませんでした。徳川幕府の禁教令で国外追放され、その翌年にマニラで亡くなりました。
瀬田掃部
初め北条氏、のち秀吉に仕えました。豊臣秀次と親しかったため、秀吉と不和になった秀次が切腹を余儀なくされた後に刑死しました。
信長・秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは徳川方につきました。大坂夏の陣のときに豊臣家への内通を疑われ自刃。茶の湯においては奇抜な美的感覚で一世を風靡し、織部流の祖となりました。
利休の高弟7人衆
コール・ミー利休七哲
高弟とは弟子の中でも特に優れたものを指す語です。
でも実は メンバーには諸説あるんだ
入る説もあるよ ここにはいないけど
荒木村重は織田信長に仕えましたが離反して居城の伊丹城を追われました。のち出家して茶の湯に専念し、豊臣秀吉に保護され茶人として仕えました。
有馬豊氏は初め豊臣秀吉に仕えましたが、秀吉の死後は家康に仕えました。関ヶ原の戦いでは東軍につき功を立て、大坂の陣でも活躍しました。
創意工夫と もてなす心 溢れ出す
一期一会 もう離さない
利休はそれまでの茶の湯の型にはまらない、斬新な工夫をこらして侘茶を確立しました。
芝山監物 牧村利貞
高山右近 瀬田掃部
大名茶人の7人衆
コール・ミー利休七哲!
読んで字のごとく、大名であり茶人でもある7人です。
でも実は メンバーには諸説あるんだ
入る説もあるよ ここにはいないけど
利休七哲のメンバーには諸説あります(念押し)。
ちなみに
利休の作った竹の花入れは3点現存しています。
雑感
Aメロ、コーラス、声を裏返す部分などから元ネタが思い起こされて楽しい曲です。衣装は「ジュリアに傷心」の雰囲気ですね。
「わび」と「さび」はRQのコーナーでも説明されていますが、非常に奥深い概念ですね(難しい)。
待庵の狭さやにじり口はRQくんのショップの試着室で表現されています。こちらは分かりやすい。
園城寺も一話を使って取り上げられています。
そして「一期一会 やっと会えたね」と「一期一会 もう離さない」という歌詞。一番でやっと会えたのに二度と会えないのかと思わせておいての二番。離さないものが何かは分かりませんが、単純に茶会の客人への向き合い方を指しているのなら、もてなしの熱量が高すぎます(褒めてる)。