戦国鍋からなんとなく歴史を学ぶ

戦国鍋からなんとなく歴史を学ぶ

なんとなく歴史を学びたい。

敦盛2011/信長と蘭丸

敦盛2011/信長と蘭丸
作詞:安部裕之 作曲:奥村愛子 編曲:安部潤  
 

元ネタ

歴史:織田信長森蘭丸 

ユニット:修二と彰、曲は青春アミーゴ

 

メンバー

 

(バックダンサー「小姓ダンサーズ」)

  • 種田亀(おいだかめ)
  • 伊藤彦作
  • 久々利亀(くくりかめ)
  • 狩野又九郎
  • 落合小八郎

 

歌詞

初めて会ったあの時に 君と生きると決めたんだ
オレの心の桶狭間 埋められるのは君だけさ

 「心の桶狭間は信長が今川義元を破った桶狭間の戦いから取っています。心の隙間のことを言っていると思われます。

 

騙されないよその笑顔 小姓の気持ちもてあそぶ
頭の中はいつだって 天下布武しか無いくせに

天下布武」は信長が掲げた目標で、書状に押す朱印にも用いた*1言葉です。

 

オレが統一したいのは二人の心 分かるだろ?
言ってるんでしょ 同じこと他の小姓の耳元で

信長は天下統一を試みましたが、二人の心も統一したいようです。

 

君が信じてくれるなら どんな願いも叶えよう
武田勝頼討ち獲ったら 城持ち大名になりたいな

 蘭丸は武田勝頼が討ち取られた甲州征伐の後に美濃金山城の城主となりました。元々は兄の長可がこの城の城主で、長可は甲州征伐で手柄を立てて得た信濃の領地に移りました。

 

君だけだよ おらん
楽市楽座はノーサンキュー
君だけしか おらん
愛の敦盛 独占させて
ビリーブ

蘭丸の愛称「おらん」と「居らん」(いない)をかけています。

楽市楽座は信長が城下町を繁栄させるためにとった政策で、特権を有する商工業者の組合である「座」を廃止し、市場税税を免除して新興商人の自由営業を許可するというものでした。

つまりは「他の人との取引(恋愛)は駄目、自分が利益(=歌詞中の“愛の敦盛”)を独占させてもらう」と読むこともできます。

 

下天の内をくらぶれば
夢幻のごとくなり
今宵2人でうつけよう

「下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」は舞の曲目『敦盛』の一節です。

「うつけ」は「まぬけ」を意味します。信長は「大うつけ」と呼ばれていました。単語としての意味はまぬけなのですが、今宵なんて言っていますし、この歌の文脈でのうつけは果たして何を意味するのでしょうか。

 

君の心の包囲網 解いてみせるさ ホトトギス
聞きたくないよ永遠に もう尾張だね そんな洒落

「心の包囲網」は信長と敵対する勢力間で結ばれた同盟「信長包囲網」から取っています。

ホトトギスは鳴かないホトトギスへの接し方に三英傑の性格を表した川柳(後世の創作)から取ったものと考えられます。

尾張」は信長の生国で、「終わり」と掛かっています。

 この曲での信長の年齢設定は47歳なので、オヤジギャグお洒落な言い回しが多めです。

 

三段撃ちで 愛してる 聞かせてくれよ ホトトギス
言わせるんでしょ 同じこと他の小姓の唇で

「三段撃ち」は三段構えの鉄砲隊が交替で一斉射撃を行う戦法で、信長が長篠の戦いで無敵と言われていた武田の騎馬隊を破ったときに用いたとされています(諸説あり)。

 

君が信じてくれるなら オレの一字を与えよう
長の一字をいただいて 森長定と名乗ります

長定の名については、信長から一字をもらったものなのか、また本当にこの名を名乗っていたのか疑問視されています。

 

君だけだよ おらん
二人の愛の巣 安土城
こっち向いて ごらん
天守閣は吹き抜け構造
ビリーブ

安土城天守閣は吹き抜け構造です。火がよく回りますね。火事で消失してしまっても仕方ないかもしれません。

 

下天の内をくらぶれば
夢幻のごとくなり
今宵2人でうつけよう


君だけだよ おらん
楽市楽座はノーサンキュー
君だけしか おらん
愛の敦盛 独占させて
ビリーブ


下天の内をくらぶれば
夢幻のごとくなり
今宵2人でうつけよう

 

 

ちなみに

天下布武は「武力で天下を制圧する」といった意味で解釈されることが多い語ですが、近年の研究では「足利将軍家のもとに畿内を平定する」という解釈も出てきており、度々NHKの歴史番組等で紹介されています。

 三段撃ち戦法は、それぞれの列で各自弾を装填して交互に撃ったという説、弾の装填作業を分担して行った説などがありますが、物理的に不可能だったのではないかとも言われています。

 

蘭丸の名前の表記は"蘭"丸ではなく"乱"丸が正しいようです。存命中の書簡には「乱法師」などの表記があります。(「蘭丸」は後年の史料にしか登場しませんが、「乱丸」表記より認知度が高いため、研究者等も便宜上この表記を使うことが多いようです。)
また、蘭丸が信長から一字を拝領して長定と名乗ったという説は『寛政重修諸家譜』(江戸時代の文書)などで唱えられていますが、蘭丸が差出人の書簡(『金剛寺文書』に収録)には「森乱成利」の署名が見られます。 

 

雑感

不動の人気曲。「戦国鍋は分からないけどこの曲だけ知っている」という方もかなりいるのではないでしょうか。他の曲も秀逸なのでぜひ。

なんとなく聴いていると歴史用語だらけの歌詞のインパクトに気を取られますが、その意味するところ(と思しきもの)を改めて文字に書き出してみると蘭丸の激重感情が立ち現れてきました。この歌詞でも重く見えないのはキャストのお二人の演技のおかげらしい。喧嘩中の回では曲の歌詞と振り付けと歌声は同じものなのに、突き放す/焦る演技が真に迫りすぎていて激重感情が(幻視かもしれませんが)はっきり見えるのが恐ろしいです。

「俺の心の桶狭間」と「君の心の包囲網」、歴史用語を絡めた歌詞が強烈で初めは気付かなかったのですが、表現が対になっていて面白いです。

ところでこの2人、曲の中では恋人のようにストレートに愛を叫んでいますが、トークでは自分たちは武将と小姓であり、あくまで主従の関係だと強調しています。二人が衆道関係にあったという説は、小姓と主人は通常そういった関係になるものという一般論に基づいており、二人が実際そうだったと裏付ける確かな資料がないことに配慮しているものと考えることもできます。(蘭丸が有能で信長からの信頼も篤く、重用されていたことは確かなようです)

 

小姓ダンサーズにわざわざ名前が付いていることについて。「いちいち芸が細かい戦国鍋のことだから、実在した小姓の名前から取ったのだろう」程度に思っていましたが、ちょっと検索してみたところ、本能寺で討死した小姓として文献に名が残っているらしいことが判明。さすが戦国鍋、チョイスがむごい。

敦盛の「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を受け 滅せぬ者のあるべきか」のフレーズは、「人間の寿命って50年くらいだよね、短いよね」という意味に取られがちですが、ざっくり言うと「人間界での50年は天上界の一日に相当するくらい短いから有意義に過ごそう」という意味になるようです(超意訳なのであしからず。詳細は本職の方のブログや本などでお確かめください)。この辺りのことは六欲天をご存知の方にとっては一般常識かもしれませんが。

 

信長周辺は年々新説や新史料が出てきていて目が離せませんね。
信長と蘭丸に関しては制作陣の作り上げた素敵な世界観を楽しみつつ史実とそうでないネタのラインを認識しておきたかっため、野暮だと思いつつ色々突っ込んでしまいました。蘭丸が有能な小姓だったのは間違いないらしいと分かったので満足です。

 

参考

「人間五十年」 幸若舞「敦盛」 : 能楽師・柴田稔 Blog

*1:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1915625 

こちらの227コマに信長の用いた天下布武の印が載ってます。

AZAISM /浅井三姉妹チームA・チームZ・チームI

AZAISM /浅井三姉妹チームA・チームZ・チームI

作詞:安部裕之 作曲:奥村愛子 編曲:安部潤  
 

元ネタ

歴史:浅井三姉妹
ユニット:Perfume、曲はおそらくポリリズム
 

 メンバー

  • 茶々

歌詞

パパは浅井長政で ママはお市の方
織田信長の妹なのよ

三姉妹の血の繋がった父親は浅井長政です。お市織田信長の妹で、浅井家と織田家が同盟を結ぶ際に輿入れしてきました。

 
パパが信長裏切って ママは再婚です
新しいパパは柴田勝YEAH
お市の兄信長が古くから浅井家と同盟関係にあった朝倉の城を攻め始めると、長政は織田との同盟を破棄して信長軍を攻めました(金ヶ崎の戦い)。
その後長政は姉川の戦いに負け、小谷城の戦いで自害しましたが、お市の方と茶々・初・江は逃げ延びます。
未亡人となったお市柴田勝家と再婚。
勝家パパが秀吉に 賤ヶ岳で負けて
ママと一緒に自害なのです
今度はママも自害。肉親を失った三姉妹は秀吉に引き取られました。

茶々・初・江! 浅井三姉妹
茶々・初・江! 浅井三姉妹
お名前暗記タイム。
 
からみ合うデスティニー ちょっと過酷すぎじゃない?
巻き込まれてくバトル 戦国のレディは受け入れるんです
望まぬ政略結婚の結果命を落とすことになるなど、戦国の女性には過酷な人生を送る人も少なくなかったようです。
(長政とお市の夫婦仲は円満だった模様)
 
長女は茶々または淀 秀頼のママ
豊臣家のリーダーみたいな

 茶々は秀吉の側室になり、淀城に住んだことから淀と呼ばれるようになりました。

秀吉の晩年に秀頼を産み、秀吉亡き後も幼い秀頼を守り育て、豊臣家を維持しようと奮闘します。
 
三女の江は徳川秀忠正室
深まってく 豊臣との溝

 一方江は結婚・離婚ののち再婚・夫との死別を経験し、最後には徳川家康の息子・秀忠の正室となります。

秀吉の死後、徳川は着々と豊臣の封じ込めを進め、両家の溝は深まっていきます。
 
いつも間に立つのは 次女の初なのね
仲介に奔走したけれど
大坂冬の陣では豊臣方として徳川方との和平交渉にあたり、夏の陣の前には家康の最後通牒を豊臣方に伝えました。
茶々・初・江! 浅井三姉妹
茶々・初・江! 浅井三姉妹

からみ合うデスティニー 誰が悪いわけじゃない
悪いのはヒストリー 戦国のレディは受け入れるんです
 

ちなみに

初は浅井氏の主家の御曹司である京極高次と結婚しました。徳川と豊臣の仲介に奔走したのは夫の死後、出家してからのことです。
京極家は徳川方でしたが大坂冬の陣の開戦時に初はたまたま大坂城におり、その血縁と姻戚関係から豊臣方の使者に選ばれたようです。
このときの徳川方の使者は家康側室の阿茶局女性同士による和平交渉が行われました。
 
戦国鍋における浅井三姉妹は3チーム制です。
 

雑感

ユニットロゴが・・・そのまんま・・・
すごく可愛い曲調でヘビーな歌詞を歌うスタイル、戦国鍋っぽいと思います。
 
参考
 

エヴリデイ儲かんでい/堺衆

エヴリデイ儲かんでい/堺衆

作詞:安部裕之 作曲:奥村愛子 編曲:安部潤  

 

元ネタ

歴史:堺衆 

ユニット:SMAP(6人時代)、曲はHey Hey おおきに毎度あり

 

メンバー

  • 津田宗及(つだそうぎゅう)
  • 呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)
  • 松江隆仙(まつえりゅうせん)
  • 今井宗久(いまいそうきゅう)
  • 小西隆佐(こにしりゅうさ)
  • 茜屋宗佐(あかねやそうさ)

 

歌詞

お侍はん お困りでっか?

なになに 戦でカネがいる?

よっしゃ一肌脱ぎまひょか!(かめへん!かめへん!)

 武将と堺商人は密接な関係にありました。

例えば天王寺屋(津田家の屋号)は三好氏に軍用金を援助していました。

 

困った時は お互い様や

サポートしまっせ天下取り

戦の沙汰もカネ次第! (かめへん!かめへん!)

 武将に軍用金を贈ることで堺の町の安全を図りました。

 

鉄砲・織物 儲かんでい

なんでもそろう 堺やさかい

南蛮貿易 儲かんでい

日本のベニス 堺やさかい

堺は南蛮貿易の拠点として発展し、鉄砲・織物をはじめとする様々な商品が取引されました。

また、自治都市であることから日本のベニスと呼ばれました。 

 

まいど!わてら堺の会合衆

ただのアキンドと ちゃいまんねん

まいど!信長はんに秀吉はん

おいくら万両いりまんねん?

堺の自治は プライスレス

ええ商いは ウィンウィンウィンウィン!

納屋の貸し付けを行っていた商人の中で特に有力な者たちが、会合衆という合議集団として行政にあたりました。なお、曲中では「えごうしゅう」と歌われていますが、最近では「かいごうしゅう」が正しいとされてきています。

1568(永禄11)年、織田信長が堺に対し、軍用金二万貫を要求。  信長の武力を前に堺衆は屈服せざるを得ず、堺の自治権は奪われました。

 秀吉は天下を取ってから堺の周囲を囲んでいた堀のの埋め立てを命じましたが、商人たちを上手く取り立てて持ちつ持たれつの関係を築いています。

 

わて津田宗及

茶の湯がめちゃくちゃ好きやねん

 豪商の家に生まれており、会合衆の中で最も有力。いわゆるボンボン。千利休今井宗久とともに信長・秀吉に仕えました。

 

わて助左衛門

ルソンで壷を買うてきてん

 納屋助左衛門、通称呂宋助左衛門。ルソン(フィリピン)から壺を輸入して巨額の財を成しますが、贅沢をしすぎて秀吉の不興を買ったためカンボジアに逃避しました。

 

わて松江隆仙

(かめへん!かめへん!)

 信長が相国寺で開いた茶会に招かれた堺の有力者10人の中にその名が見られるそうです。

 

わて今井宗久

武将に銃を売ってんねん

千利休茶の湯の師匠でもある武野紹鴎に師事し、娘婿になりました。商才を発揮して要職に就いた成り上がりタイプ。千利休今井宗久とともに茶の三大宗匠といわれています。   

 

わて小西隆佐

息子を武将にしたるねん

 小西隆佐は薬種商人でしたが、秀吉に才能を買われて財務・兵糧管理などを任されるようになりました。次男の小西行長は秀吉に取り立てられて武将になりました。

 

わて茜屋宗佐

(かめへん!かめへん!)

 前述の相国寺茶会に出席。武野紹鴎に師事した茶人・商人。茶の湯の名物を複数持っていたとされています。

 

 鉄砲・織物 儲かんでい

なんでもそろう 堺やさかい

南蛮貿易 儲かんでい

日本のベニス 堺やさかい

まいど!わてら堺の会合衆

ただのアキンドと ちゃいまんねん

まいど!信長はんに秀吉はん

おいくら万両いりまんねん?

堺の自治は プライスレス

ええ商いは ウィンウィンウィンウィン!

  

ちなみに

「日本のベニス」という堺の二つ名は、イエズス会の宣教師ガスパル・ビレラの本国への報告に見られる「此町はベニス市の如く執政官に依りて治めらる」という記述から生まれたものと考えられます。

6人の商売に関してはトーク部分で詳しく言及されています。

 

雑感

オマージュ元の6人を思わせるふわっとした歌い方によってミュージック・トゥナイトお得意の「どこかで聴いたことある感」が増しています。スタッフさんの編集力なのか演者さんの再現力なのか、どちらにせよ素晴らしいです。

歌声の爽やかさに反してトークは押しが強い。アイドルユニットの設定ということで、自治がセルフプロデュースでの活動に置き換えられているのも面白いです。

信長が要求した軍用金二万貫は、当時の貨幣価値が明確に定まっていないため現代の貨幣で幾らになるかについては諸説あるようです。しかしどの説を見ても大金です。

国外逃亡せざるを得ないほど秀吉から不興を買う助左衛門、一体どんな暮らしぶりだったのか・・・

 

参考

東京女子大学学術情報リポジトリ

2:「自由・自治都市」として発展 ~ 堺 | このまちアーカイブス | 不動産購入・不動産売却なら三井住友トラスト不動産

その他の先人達 

https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/rekimachi/gijiroku_haifu/rekimachi_shiryo_23.files/rekishi_fuchi_shiryo_27_02.pdf 

中世堺の自治組織である「会合衆(えごうしゅう)」は三十六人衆ともいわれているとのことだが、そのメンバ... | レファレンス協同データベース 

https://www.city.sakai.lg.jp/shisei/koho/citypromo/taiga_sennorikyu.files/kiiro.pdf

 

たぶん利休七哲/利休七哲

たぶん利休七哲/利休七哲     

作詞:安部裕之 作曲:奥村愛子 編曲:安部潤  

 

元ネタ

歴史:利休七哲

ユニット:チェッカーズ、曲は涙のリクエスト

 

メンバー

 

歌詞

利休の背中追いかけて

ここまで来たよ 数奇の道

 数寄は「好き」と同語源で、風流・風雅を好むことを指し、15世紀中頃から茶の湯の風流も指す語となりました。

 

わびさび学び 茶の湯フォーユー

武功もお茶も立てるのさ

 「わび」は飾りやおごりを捨てた、ひっそりとした枯淡な味わい、「さび」は古びた味わいだそうです。「わび」という言葉を初めに使ったのは千利休の師の武野紹鴎で、侘び茶を大成したのが利休です。

武士が茶の湯を嗜んだ理由は、茶会が外交の場であったこと、茶の湯に精神訓練的側面があったことなどが挙げられます。

 

名物なんて なくていい

茶室に広間もいらないさ

行こう待庵にじり口

くぐればそこは ユニバース

 ここでの名物とは選定された由緒ある茶道具のことを指します。利休は名物でなく無名、あるいは新作の道具を積極的に取り入れました。

待庵は利休が侘び茶の理想を体現した茶室です。にじり口は利休が発案したとされる茶室の小さな入り口で、客は身をかがめてにじって茶室に入ることになります。その小ささは、武士などが下げている刀は外して入らなければならないほど。茶室に入れば皆身分は関係なく平等であるということが表されています。

 

竹の花入れ 水仙の花が揺れてる

一期一会 やっと会えたね

 利休は豊臣秀吉の小田原攻めに同行し、その地に生えていた竹で簡素な花入れを作りました。

 水仙の花は利休が好んだとされています。

一期一会は元々茶道の心構えを示す語として、客も客を迎える側も茶会は毎回一生に一度だというつもりで、誠意を込めて臨むべきだ、という意味で使われていました。

 

蒲生氏郷

織田信長豊臣秀吉に仕えた武将。歌道も茶道も嗜んで武功も立てた文武両道なキリシタン大名。利休が自害した後、息子の少庵を保護しました。

 

細川忠興

細川藤孝(幽斎)の息子で、光秀の娘たま(ガラシャ)の夫としても有名。秀吉に仕えましたが関ヶ原の戦いでは徳川方につきました。和歌・絵画・蹴鞠など複数分野において知識多め。血の気も多め。

 

芝山監物

信長・秀吉に仕えた武将。秀吉には御伽衆(主君に近侍して雑談の相手をする職で、当時一流の文化人が就いた)として仕えました。

 

牧村利貞

信長・秀吉に仕えたキリシタン大名文禄・慶長の役に参加し、朝鮮で没しました。

 

高山右近

信長・秀吉に仕えたキリシタン大名牧村利貞黒田官兵衛など多くの武将をキリスト教に導き、バテレン追放令が敷かれても信仰を捨てませんでした。徳川幕府の禁教令で国外追放され、その翌年にマニラで亡くなりました。

 

瀬田掃部

初め北条氏、のち秀吉に仕えました。豊臣秀次と親しかったため、秀吉と不和になった秀次が切腹を余儀なくされた後に刑死しました。

 

古田織部

信長・秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは徳川方につきました。大坂夏の陣のときに豊臣家への内通を疑われ自刃。茶の湯においては奇抜な美的感覚で一世を風靡し、織部流の祖となりました。

 

利休の高弟7人衆

コール・ミー利休七哲

 高弟とは弟子の中でも特に優れたものを指す語です。

 

でも実は メンバーには諸説あるんだ

荒木村重とか 有馬豊氏だとか

入る説もあるよ ここにはいないけど

 荒木村重織田信長に仕えましたが離反して居城の伊丹城を追われました。のち出家して茶の湯に専念し、豊臣秀吉に保護され茶人として仕えました。

有馬豊氏は初め豊臣秀吉に仕えましたが、秀吉の死後は家康に仕えました。関ヶ原の戦いでは東軍につき功を立て、大坂の陣でも活躍しました。

 

創意工夫と もてなす心 溢れ出す

一期一会 もう離さない

 利休はそれまでの茶の湯の型にはまらない、斬新な工夫をこらして侘茶を確立しました。

  

蒲生氏郷 細川忠興

芝山監物 牧村利貞

高山右近 瀬田掃部

古田織部

 

大名茶人の7人衆

コール・ミー利休七哲!

 読んで字のごとく、大名であり茶人でもある7人です。

 

でも実は メンバーには諸説あるんだ

荒木村重とか 有馬豊氏だとか

入る説もあるよ ここにはいないけど

 利休七哲のメンバーには諸説あります(念押し)。

 

 

ちなみに

利休の作った竹の花入れは3点現存しています。

そのうちの一つ、園城寺こちら(リンク先に画像あり)

 

雑感

Aメロ、コーラス、声を裏返す部分などから元ネタが思い起こされて楽しい曲です。衣装は「ジュリアに傷心」の雰囲気ですね。

「わび」と「さび」はRQのコーナーでも説明されていますが、非常に奥深い概念ですね(難しい)。
待庵の狭さやにじり口はRQくんのショップの試着室で表現されています。こちらは分かりやすい。
園城寺も一話を使って取り上げられています。

 

そして「一期一会 やっと会えたね」と「一期一会 もう離さない」という歌詞。一番でやっと会えたのに二度と会えないのかと思わせておいての二番。離さないものが何かは分かりませんが、単純に茶会の客人への向き合い方を指しているのなら、もてなしの熱量が高すぎます(褒めてる)。

 

参考

妙喜庵HP

ベー・アンベシャス/兵衛'z

ベー・アンベシャス/兵衛'z     
作詞:安部裕之 作曲:奥村愛子 編曲:安部潤  

 

元ネタ

歴史:竹中半兵衛黒田官兵衛(通称両兵衛または二兵衛)

ユニット:B'z、曲は不明。

 

メンバー

 

歌詞

本気で天下取るつもりなら 

ベー・アンベシャス! 

軍師選びが肝心さ

「ベー・アンベシャス 」はBe ambitiousのもじり。曲中のBeは全てベーに置き換えられます。  

 

半兵衛・官兵衛が揃ったら 

ドンベー・アフレイド! 
城は落ちたも同然さ 

 「ドンベー・アフレイド 」はDon't be afraidのもじり。

 
大軍はいらない 戦はココ(頭)さ 
さすがだよ秀吉 お目が高いね 
三顧の礼は 無駄にしないぜ 
半兵衛も官兵衛も敵軍に数で劣る状況でも勝てる知将として有名。
半兵衛は織田家家臣の木下藤吉郎(のちの秀吉)三顧の礼をもって軍師として迎え入れられました。
 
鳥取城は兵糧攻め 高松城は水攻め 
今度はどの城 落とせばいい? 
どちらも官兵衛の功績です。
自軍の兵力を損なわない戦いを得意としました。
 
八幡山城は調略 
三木城なら兵糧攻め 
陽動作戦もお見通し 
こちらは半兵衛の功績。
宇喜多氏の八幡山城を調略して落城させました。
 
三木合戦では秀吉に兵糧攻めの策を授け(通称「三木の干殺し」)、その陣中で病死。
長篠の戦いでは敵の武田軍の陽動作戦を見抜いて秀吉の陣の総崩れを食い止めました。  
  

本気で天下 取るつもりなら

ベー・マイ・ベイベー!

ヤバい作戦 授けるぜ

半兵衛・官兵衛が揃ったら

ベー・トゥゲザー!

毛利討伐 目前さ

織田信長が天下統一の過程において、秀吉に命じて毛利氏(+同盟関係にある宇喜多氏)の勢力範囲である中国地方に侵攻したことを中国征伐(毛利討伐)と言います。これは1577年から始まり、1582年、本能寺の変後に秀吉が毛利との講和を結んだことで終結しました。中国征伐には三木合戦や高松城の水攻めなど、両兵衛が勝利に貢献した戦が多く含まれます。

稲葉山城は十数人で

華麗にキャッチ&リリース

後世の創作?それが何か?

半兵衛は1564年に、当時仕えていた斎藤龍興の居城である稲葉山城を数十人で奪い、すぐに返還したという逸話が残っていますが、これは後世の創作であると言われています。

小田原は無血開城

植田城はあえてスルー

長宗我部のプラン 敗れたり

小田原征伐では北条氏が篭城戦の末に降伏したため、無血開城に成功しました。

四国討伐で官兵衛は長宗我部元親が植田城へと官兵衛の軍を誘い込もうとしていることに気付き、兵の損失を回避しました。

 

本気で天下取るつもりなら

ベー・アンベシャス!

軍師選びが肝心さ

半兵衛・官兵衛が揃ったら

ドンベー・アフレイド!

城は落ちたも同然さ

 

 

ちなみに

歌詞中に出てくる戦を時系列順に並べると以下のようになります。

 

織田信長荒木村重に裏切られた際、官兵衛は村重を説得するため有岡城に向かいましたが城に幽閉されてしまいます。信長は官兵衛が自分を裏切ったのだと誤解して息子の松寿丸の殺害を命令しますが、半兵衛が松寿丸を匿っていたおかげで事なきを得ました。
 
秀吉が信長の没後すぐに毛利と和議を結んだことは、秀吉を天下人へと近付けた「中国大返し」の序章としても有名です。
 
半兵衛が死ぬ前に秀吉に策を授けた話は戦国サポートセンターでも取り上げられています。
 
 

雑感

ユニット名を見た時点でオマージュ元が分かってしまいます。半兵衛、細身のシルエットも動きもそれっぽいですね。

稲葉さん枠が稲葉山城を乗っ取ったとされる半兵衛になっているのは偶然ではない気がします。

歌詞が中々に強気ですが、これだけの功績を並べられると「城は落ちたも同然」などと言われても納得してしまいます。
 
 
参考

GO!天正遣欧少年使節/天正遣欧少年使節

GO!天正遣欧少年使節/天正遣欧少年使節

作詞:安部裕之 作曲:奥村愛子 編曲:安部潤  

 

元ネタ

歴史:天正遣欧少年使節

 ユニット:不明

 

メンバー

 

歌詞

学校はセミナリヨ

キリシタン大名有馬晴信の時代に、有馬(長崎県南島原市)キリスト教教育機関であるセミナリヨが日本で初めて設立されました。

 

選ばれたよ僕ら4人

 セミナリヨに学んだ人々の中から、キリシタン大名有馬晴信大友宗麟大村純忠の名代として選ばれた4人が天正遣欧少年使節です。

 

連れてって

ヴァリニャーノ

イエズス会の宣教師ヴァリニャーノが日本での布教活動の成果を知らせるために四人の少年のヨーロッパ派遣を企画、主導しました。

 

知りたいよ隣人ラブ

隣人ラブ=隣人愛。 キリスト教の教義ですね(マタイによる福音書22章39節)。

 

この海の向こう

何が待っていても

 

十五夜に(1582)

希望の船で漕ぎ出そう!

 突然の年号暗記タイム。

 

ローマ教皇

スペイン国王

メディチさんにも

会えるかな

 天正遣欧少年使節が実際に会った人々です。

中浦ジュリアンローマ教皇と公式に謁見する日、病気のため出席することができませんでした(ミュージックトゥナイトのトーク部分で言及あり)。ただし公式の謁見前、非公式に会っていたという記録があるようです。

メディチさんはフィレンツェの富豪、メディチ家トスカーナ大公フランチェスコ1世を指すと考えられます。

 

リスボンミラノ

フィレンツェマドリード

舞踏会にも出れるかな

 天正遣欧少年使節はこれらの地を訪れました。前述のトスカーナ公によって使節を歓迎する舞踏会が開かれました。

 

伊東はマンショ

千々石はミゲル

原はそうマルチノ

 

中浦はなんたって

ジュリアンさ

 年号に続き、お名前暗記タイム。

 

僕たち天正遣欧少年使節!

GO! GO! GO!

 

戦国生まれ

キリシタン育ち

九州のバテレン

だいたい友達

 4人は幼少時よりキリスト教に親しんでいました。

「だいたい友達」は韻の関係で友達という言葉選びがなされたのでしょうか…少なくとも九州のバテレン(クリスチャン)に彼らが広く認知されていたのは間違いありませんし、マンショとミゲルはキリシタン大名の血縁者です。

 

知ってるかい?

僕らの大航海

リスボンまで2年半

1582年2月に長崎を発った彼らがリスボンに到着したのは、1584年8月のことでした。

 

ヴァリニャーノは

ゴアまでなの

セミナリヨで学びなYO!

 ゴアでヴァリニャーノと別れ、メスキータの引率のもと旅を続けました。

 

伊東はマンショ

千々石はミゲル

原はそうマルチノ

中浦はなんたってジュリアンさ

僕たち天正!遣欧!少年!使節!

GO! GO! GO! 

 

 

ちなみに

この曲ではマンショ・ミゲルのみにソロパートが割り振られています。

これはおそらく、キリシタン大名の血縁者であった(マンショは大友宗麟の姪の子、ミゲルは有馬晴信の従兄弟で大村純忠の甥)二人が正使、マルチノとジュリアンが副使であったことを反映しているものと思われます。

売り出し方に差がつけられた訳ではないはず、多分。

 

希望の船で漕ぎ出してヨーロッパに到着、歓待を受けた4人でしたが、彼らが帰り着いた日本は出発時とは様変わりしていました。信長が世を去り秀吉が天下人となっており、バテレン追放令が敷かれていたのです。禁教の中彼らは悲惨な運命を辿ることとなりました。

 

ヴァリニャーノの後を引き継いで4人を引率したメスキータ神父とは、ミュージック・トゥナイトの公開収録回で団扇を振っているあの男性のことです。

 

雑感

全体を通して韻踏みまくりの歌詞。瞼に焼き付きやすい謎の振り付けもあいまって、瞬く間に天正遣欧少年使節をなんとなく学べます。よくできている。

しかしオマージュ元のユニットが分かりません。色々な説をネットで見かけますがはっきりしないので、完全オリジナルなのかもしれない。 この謎、ジャニオタ兼鍋オタの方々なら解明可能なのでしょうか。

最後のミュージック・トゥナイト出演回で剣を置いてステージを去っていくのは山口百恵さんの引退コンサートのオマージュっぽいですね。

 

 

参考

https://www.city.minamishimabara.lg.jp/kyouiku/page4734.html

https://ia800606.us.archive.org/24/items/portugaljesuitsj00west/portugaljesuitsj00west.pdf

 

 

 

シズガタケの七本槍/SHICHIHON槍

シズガタケの七本槍/SHICHIHON槍

作詞:安部裕之 作曲:奥村愛子 編曲:安部潤  

 

 元ネタ

歴史: 賤ヶ岳の七本槍 

ユニット: 光GENJI、曲はガラスの十代

 

メンバー

 

歌詞  

※放送時は1番のみでしたが、武士ロックフェスティバルで2番が追加されました。

 

心に誓う 秀吉への思

賤ヶ岳の七本槍賤ヶ岳の戦いにおいて秀吉側について戦いました。

 

信長亡きあと ライバルは勝家

倒せば天下さぼくらのヤリで叶えよう 

 この時の状況は後述。賤ヶ岳の戦いは秀吉にとって天下がかかった大事な戦ということです。

 

IKUSAはチャンス!(チャンス!)

討ち死にするのは怖いけど

HOUBIもゲット!(ゲット!)

ヤリは折れても 心は折れない

 命をかけて武功を立てたら出世できる、褒美が貰える。これはチャンス。

 

決戦の舞台はシズガタケ

 一番槍だ 福島正則

 先陣を切って敵と槍を交えた人は一番槍と呼ばれます。

 

虎も倒した加藤清正

賤ヶ岳の戦いより後、朝鮮出兵の際に虎を倒した逸話があります。実際は清正ではなく黒田長政が倒したそう。通称が虎之助なので、虎にゆかりがある人物なのは間違いありません。

 

加藤孫六こと 加藤嘉明

通称孫六、本名嘉明。曲中では「よしあきら」と歌われていますが、「よしあき」と読むことも。

 

七人合わせて七本槍

 淡路水軍 脇坂安治

 そのままです。賤ヶ岳の戦いより後に淡路の洲本城主となり、淡路水軍を率いていました。

 

大名じゃないよ 平野長秦

石高一万石以上の者が大名と見なされていたようです。平野長泰の石高は賤ヶ岳の戦い後で3000、その後加増されるも5000石止まりと、他の七本槍の面々に比べると少なめでした。

 

あと糟屋武則片桐且元

二人だけ扱いがすごく雑です。

糟谷武則は最も大きな手柄を立てたのが賤ヶ岳の戦いで、それ以降の戦績はあまりパッとしません。

片桐且元大坂の陣前後の時期に豊臣と徳川の板挟みになった苦労人として小説やドラマにしばしば登場します。

 

ウィー・アー ウィー・アー 七本槍

 

(ここから武士ロックフェスティバルで追加された2番の歌詞)

IKUSAはチャンス!(チャンス!)

主君の心を射抜いたら

KOKUDAKAアップ!(アップ!)

槍が降っても 棒には振らない

武功を上げても主君の心を射抜けていなかったら石高アップしにくいこともあったらしい。 

 

決戦の舞台はシズガタケ

酒癖悪いぞ 福島正則

三名槍の一つ、日本号を呑み取られた逸話が有名です。泥酔して家臣に切腹を命じたという恐ろしい話もあるようです。

 

兜が長い 加藤清正

蛇の目紋長烏帽子形兜という長い兜が加藤清正の兜として有名です。

 

何も長くない 加藤嘉明

「何も」が示すものは分かりませんが、兜は確かに加藤清正ほど長くありません。「銀箔押富士山形張懸兜」という変わった形の兜が加藤嘉明所蔵として伝わっています。

 

七人合わせて七本槍

貂(てん)の皮だぜ 脇坂安治

脇坂家では馬印(大名が自身の位置を示すための表示具)として貂の皮が用いられていました。

 

旗本なのさ 平野長泰

平野長泰関ヶ原の戦いで東軍につき、以後徳川家に仕えました。江戸時代には将軍家直属の家臣のなかで大名(石高1万石の者)以下,御目見 (おめみえ、将軍に謁見できる者) 以上の者を旗本と言いました。結局「大名じゃない」ままでした。

 

あと 糟谷武則と片桐且元


ウィ・アー ウィ・アー 七本槍

 2番でもこの2人は省略されてしまいました。

 

ちなみに

本能寺の変で信長が没した後、織田家の家臣たちは清洲城(愛知県清須市)で後継者を決める会議を行いました。謀反を起こした光秀を討った功労者である秀吉にとって最大のライバルは、古くからの織田家家臣・柴田勝家清洲会議において両者は対立し、その翌年には賤ヶ岳の戦いで直接対決をすることに。勝てば天下はほぼ手中に収まるという正念場で秀吉は見事大勝、こののち栄華を極めていきます。

戦の当時秀吉は羽柴姓を名乗っていましたが、これは丹羽長秀柴田勝家の名字からそれぞれ一字を貰ったものです。

秀吉のもとで戦った七本槍関ヶ原の戦いでは糟谷武則と片桐且元以外の5人が東軍についています。そのうちの一人である福島正則は、晩年に幕府に無断で城を改築したかどで領地を没収されました。一方平野長泰は大名にこそなれなかったものの石高を減らされることもなく、子孫が十代にわたって同じ所領を統治しました。

七本槍賤ヶ岳の戦いで武功を上げた者として知られていますが、この7人以外にも武功を挙げて褒賞を得た者はいます。

 

加藤清正の長い兜の画像はこちら。 

個性的な加藤嘉明の兜はこちら

脇坂安治の貂の皮の旗印の詳細はこちら。 

 

雑感

この昭和感と漢字+アルファベットのネーミングは間違いなく光GENJI。ローラースケートが槍に置き換わっているのでしょうね。衣装はピンクなのでパラダイス銀河、曲はガラスの十代に近いと思われます。

各人の説明が短い。情報があまりない人もいるので仕方ないですね。

関内ホールライブで通常ver.の後に歌われたというアコースティックver.(元ネタ: 夜空ノムコウ)も雰囲気が出ていていいですね。

 

参考

http://museum.city.fukuoka.jp/archives/facata/pdf/025/facata025_6.pdf

http://www.town.tawaramoto.nara.jp/material/files/group/3/24242683.pdf